週刊文春より転載させて頂きました ホームページ管理者 
(取材・構成  崎由美)
      の豪徳寺のマンションに住みはじめたのが九三年。本当は一軒家に住みたかったんですけど、値段は手頃でも全部断られちゃうんですよ、自由業っていうのは。履歴書に岸田戯曲賞受賞って書いても何の効果もなかった(笑)。でも、この間取りもけっこう気に入ってます。八畳のリビングと六畳の寝室と十畳の仕事部屋があるんですけど、僕はその仕事部屋をコンピューター要塞化してしまおうという計画を立ててるんです。ええ、コンピューターが好きで。コンピューターをいじくり回して、そのよくわからなさに感動するっていう質なんですよ。仕事部屋にウィンドウズマシンとマックが一台ずつ、居間にマックの古い機種が二台、それからサブノートと、携帯機としてのパームトップを持ってて、エッセイの原稿用、戯曲用、ホームページの画像処理用、スケジュール管理用と、使い分けてます。
大量の本とパソコンに占領された官沢さんの仕事部屋は、アナログとデジタルが渾然一体となったまさに知の要塞。パソコンという道真を使って戯曲やエッセイを書き、小説執筆に取り組むことで常に創作活動を変容させ続けている宮沢さんの姿が、自宅の改築を重ねた父上の姿に、ほんの少し重なって見える。
     ダガスカルから明大前に戻ってきた後、井の頭通りと甲州街道に囲まれてるアパートだったもんだから空気が悪くて、また体調崩しちゃったんです。夜中に救急車で運ばれることが何度かあったんで、やっぱり今のかみさんと一緒に暮らさないとダメだってことになって、今度は二人で祐夫寺に部屋を借りたんです。
 そこにいたのは、これまでで一番長い約四年。移った頃は放送作家の仕事もやめてて、主な収入源が劇評だけだったりしたから、経済的には逼迫してましたね。でも、どこかガツガツしてた放送作家時代と比べて、マダガスカルに行ってからは、自分のペースで自分のやりたいことだけやっていけはいいんだなっていう気持ちになってたから、貧乏なのもそんなに苦にはなりませんでしたけど。
祐天寺に移った翌年の九〇年に遊園地再生事業団を結成。九二年に発表した「ヒネミ」で岸田戯曲賞を受賞。戯曲以外のエッセイの以来も増えといった具合で、現在の宮沢章夫像がハッキリ形づくられたのがこの時期といっていいかもしれない。
その明大前時代に入った頃、宮沢さんはラジカル・ガジベリビンバ・システムを解散して、半年の長きにわたるマダガスカルへの旅に出立。首都の中心地にある一泊850円のホテルに滞在して、ひたすらのんびりした時間を過ごした。
     が変わっていったのが、子供心にちょっと謎でしたね。階段や居間の位置がちょくちょく変わるんですよ。だから、静岡県の掛川市にある記憶の中の実家は、こういう風だった、でも、ああいう風でもあったという具合で、なんだかうまく思い出せなくて。だって字校から帰ったら、いきなり屋根の上に三階ができてたりするんだから(笑)。親父が自宅とは別の場所に持ってた仕事場の上に、打ちっ放しが出来るようなゴルフ練習場を作った時もちょっと笑っちゃったなあ。屋根裏部屋が出来てたこともあるし、どこにつながるのか不明な謎の階段が出現したこともあるしで、なんだか家全体が赤瀬川原平さんいうところのトマソン物件みたいだったような気がしますね。
 実は親父が建築業だったんです。それで、しょっちゅう家の改築をしてたんでしょうね。新しい建材とか出ると、つい使いたくなるのか、たとえばアコーディオンカーテンなんかが新製品として出ると、そこにつけてもしようがないだろうって場所に、ある日突然それが・・・・。
宮沢章夫(劇作家,演出家)
材料と技術があると、人は何でもするんだなと思いましたね(笑)。
一番多かった頃で、部屋数は六、七ありました。大工さんの見習いの若い人が住み込みで来てた時代もあったから、その時々の状況に合わせて改築してたんでしょうかね。
この間、親父が家を新しく建て直すて言ったから、今度はどんな家にするんだろうと思ってちょっと心配してたんだけど、それがわりとモダンだったんで関心しちやった。でも、やっぱ り新しい建材使いたがるとこは変わってないなとは思ったんだけと(笑)。
七四年、生まれた頃から憧れ親しんだ掛川を離れ、多摩美術大学建築学科に進むために上京。
     京して最初に住んだのは武蔵小金井の三畳間。トイレもキッチンも全部共同でした。その三畳間に製図台とドラフターを置いてたもんだから、ものすごく窮屈でしたね。ドラフターの下に足を突っ込んで寝なくちゃいけなくて。半年後、大家さんが「安くするから、空いてる隣りの部屋も借りない?」って言ってきたから、その後しばらくは、つながってない三畳二間に住んでたんだけど、隣りの部屋に行くには一旦廊下に出なきやならないわけだから、当然のことながら不便で、不便で。
それで今度は八王子の六畳一間のアパートに引っ越したんです。そこはトイレもキッチンも部屋の中についてて、まあまあ住み心地はよかったんですけど、なんせ大学の最寄り駅だったりするもんだから、サークル(映像演出研究会)の仲間の溜まり場みたいになっちゃって。そのサークルの一年下に竹中直人がいたんですけど、知り合った時からすでに松田優作やブルース・リーの真似をしてました、あいつは。最初はちょっとイヤだなと思ったんですけど(笑)、じきに仲良くなって。妙にウマが合ったっていうか。この竹中が八王子の家にいきなりやって来ちゃあ、「俺は誰それさんが好きだあー」って宣言したり、ギターひいたりしてたっけ。その頃の竹中っていうと、何かっていうと泣いてたような気がする。失恋しちゃあ泣き、感激しちゃあ泣き、楽しかったっていっちゃあ泣き、それを人の家に押しかけて繰り返してたんだから、あきれたヤツだな、まったく(笑)。
     はね、父親の跡を継ぐなんてとんでもないと思ってました。子供の頃って、誰でも父親のことなんかに関心ないじゃないですか。でも、最近になって、いろいろ親父の若い頃の話を聞き出すとけっこう面白いんですよね。役者志望で、伊東四朗さんのお兄さん・伊藤祥三さんが掛川で作ってたアマチュア劇団に参加したり、それ以外にもあれやこれやと、結婚するまではどうやら放蕩の限りを尽くした人だったみたいなんです。で、考えてみると、僕もつくづく親父と同じようなことやってるんじゃないかって。職人さんていうのは酔っぱらいや、変わった人が多いんです。そういう人材を使って一軒の家を建てる親父と、やっぱり飲んだくれでどうしようもない役者を使って一本の芝居を作る僕と、何だかすごく似てるような気がしてきてるんですよ(笑)。
1956(昭和31)年、静岡県生まれ。85年からシティボーイズ、竹中直人らと「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」で活躍。90年から「遊園地再生事業団」を主宰、「ヒネミ」で岸田戯曲賞受賞。著書に 「牛への道」 など
Illustration=Taichi Akashi
     築の勉強が面白くなってたんで、ちゃんと理工系の大学を受け直そうかと、療養中は少し勉強もしてたんです。だけど、大学に戻る一、二ヶ月前くらいかな、やっはり小さい頃から好きだったお笑いとかの方面も面白いんじゃないかと考え直して。で、77年に復学したんですけど、これってセックス・ピストルズが出現した年なんですよ。東京に戻ったら、一年前まで長髪だったヤツがみんな刈り上げててアレッて思ったのが印象的だったなあ。
 芝居を観はじめたのはその頃ですね。つかこうへいとか東京乾電池とか別役実作品とか、平野甲賀さんがチラシやポスターをデザインしてた黒テントとかの公演に行ってました。まあ、そんな風に三回目の二年生時代が過ぎていったんですけど、僕が三年生に進級する頃になると、仲のよかったヤツはみんな卒業してしまって。途端に大学がつまらなくなったんで、中退することにしたんです。その後、七九年の十月くらいから翌年の二月までは、府中の六畳一間のアパートからほとんど出ることもなく、暖房がもったいないから毛布を膝にかけて本はかり読んでるっていう日々を送ってました。その時すでに意識の中では、何か書くということでプロになりたいって気持ちが強かったと思うんです。何かを表現したいんだけど、何も出来ない。そのポテンシャルがどんどん溜まっていった時期だったんでしょうね。ひなぴた府中にある小さなスーパー忠実屋の屋上で、時々観覧車に乗ってボンヤリしてることもあったなあ。その忠実屋も今はもうありませんけど。
が、宮沢さんは持病の喘息が再発して休学。実家に戻り、一年間の療養生活を送ることになる。
    れまでの家じゃ手狭なんで、かみさんが府中の駅を挟んだ反対側の所に二間のマンションを借りてきたんです。そこから風呂がつくようになりましたね.吉田照美さんのラジオ「てるてるワイド」の構成を手伝ってましたし「シティポーイズ・ショー」なんかもコントを寄せるだけじゃなくて演出もするようになってましたから、当時はけっこう忙しかったな。
 八五年には「シティポーイズ・ショー」 のメンバーに、いとうせいこうと中村ゆうじ(現・有志)も加わる形でラジカル・ガジベリビンバ・システムを結成したりもして、芝居をやってると府中じゃやっぱり不便だっていうんで、今度は東中野に移ったんです。そのあたりから、深夜テレビの仕事もするようになってて、少し売れてきたんですね。で、収入が増えると人間バ力になるなあと思ったんだけど、その次に住んだのが高級住宅街・渋谷区松濤の一件家。かみさん任せにしてたら、そういうとこ借りてきちゃって。家賃が当時で二十五万円。一階に十畳ぐらいの居間があって、それから小さな台所と、その横に写真をやってるうちのかみさんが暗室に使ってた小部屋があって、二階には十二畳ぐらいの部屋と六畳の寝室があってという、そんな間取りでしたね。この家の入口のドアには網戸がついてて、それがアメリカ映画みたいでうれしかったなあ(笑)。外見は普通の日本家屋なのに、バスタブが脚の付いた洋式だったりして、よくわからない裏でしたね。この家に引っ越した時は面白かったんですよ。これまた、かみさん任せだったんですけどね。何か見積もりの時に勘違いしたのか、東中野の家のほうに来た引越し屋がたったの二人で。ところが、本だけでもすこい量だったもんだから、作業の途中で引っ越し屋の人が一人倒れちゃった(笑)。その後、追加で二人手伝いにきたらしいんだけど、僕が新居に夜の十一時ぐらいに帰ってきても、まだ作業してるんですよ。仕事で疲れてて眠かったから、ベッドだけ作ってもらって僕は先に寝ちゃったんですけど、朝の五時に目を覚ましてもまだ荷物を運ぴこんでたっていう(笑)。”史上最大の引越し”つて名づけました。
 そういう面白いこともあった家なんすけど、引っ越して数ヶ月後、ある特殊な事情で僕だけ家を出て、その後、明大前のアパートに移ったんですよ。十畳くらいのリビングと六畳二間あって、その間仕切りを全部取っ払って住んでました。で、そうした事態というのは大変だなあと思ったのは、「この本は俺が買った」「いや違う」とかっていう、いろいろな葛藤があるわけで。そうやって運び出した本と、新しく買った最低限の電化製品だけに囲まれて、疲れきってましたね、あの頃は。
そんな潜伏数カ月を経た後、知り合いの紹介でラジオ局のバイトを始めるようになった宮沢さん。ハガキの整理などの簡単な雑務から、徐々に放送作家的仕事にも携わるようになる。と同時に、シティポーイズと竹中直人氏の公演「シティポーイズ・ショー」(渋谷・ジャンジャン)にコントを寄せるといった、現在の宮沢さん像に近い仕事もこなすように ━━。 そして、二十五歳で結婚。宮沢さんの身辺がこの頃から急に慌ただしくなる。
四季のうつろう木のすまい

一級建築士事務所
kobayashi2.gif (2666 バイト)